『サイクルショップの怪』
友人のSさんの話だ。
彼女のマンションの近所に、「Kサイクル」という個人経営の小さな自転車屋があるという。
Kという30代半ばくらいの気さくな男性がやっている店で、Sさんは3年前に引っ越してきて早々にママチャリを求めて以来、2ヶ月に一度はチューブの空気を入れてもらったり、点検してもらって細々した消耗品を買ったりと、長く付き合いを続けていた。愛想の良い店主のK氏に、Sさんは好感を持っていたそうだ。
ある夕方、買い物帰りに釘を踏んで自転車をパンクさせてしまったSさんは、Kサイクルへ修理を頼みに行った。
薄暗い店内で、知らない男がこちらに背を向けて自転車を直していた。ずんぐりと太った後ろ姿だけで、痩せ型で長身のK氏ではないと分かったそうだ。
男に声をかけると、こちらを向いて笑いかけてきた。
Sさんはぎょっとした。男の容貌が異様だったからだ。
顔に大きな穴が空いていたという。
左目があるはずの部分に、握りこぶしほどの大きさの空洞がぽっかりとひらいている。
声を上げそうになるのを、それはあまりに失礼だとかろうじて抑え込んだ。大きな事故にでも遭って負った傷なのだろう。しかし……こんな風になって人は生きているものなのか。
見ないようにしても、どうしても穴に目が行ってしまう。空洞の中は肌と同じ色をしていて、向こう側が見えていた。
『ああ、Sさん。今日はどうされました?』
男の言葉に、Sさんは訝しく思った。
なぜ私の名前を知ってるんだろう? 最初に自転車を買ったときから、この店でK氏以外の店員を見たことがなかった。初対面のはずだ。言い方は悪いが、そもそも過去にこんな人物に会っていれば忘れるはずがない。
不審に感じながらも、仕方がないのでパンクの修理を依頼した。男は右目と口でにこにこ笑いながら、少し時間がかかるので明日取りに来てほしい、と告げた。
Sさんは訊ねたそうだ。「今日は他の方は?」
すると、男は笑みを浮かべたまま首をかしげてみせたという。
『他の方って、うちは僕ひとりですよ。ご存じでしょう?』
いよいよ怖くなってSさんは逃げるように店を後にした。
マンションまで戻ったところで自転車を置いてきてしまったことに気づき引き返したが、店を出てから5分も経っていないはずなのにシャッターが下ろされて、閉店していたという。
そして翌日。
気味が悪かったが、自転車がないと困るのでSさんはKサイクルを訪れた。
対応してくれたのはいつものK氏で、自転車もきちんと修理されていた。
「ごめんなさいね、すぐ対応できなくて」
謝るK氏に、Sさんはあの男のことを訊ねようとした。
「あの、昨日応対してくれた人って……」
「そういえば昨日、変なことおっしゃってましたね。他の人がどうとかって」
K氏が遮るように言うのを聞いて、いよいよSさんは混乱した。
「……Kさんが、対応してくれたんでしたっけ?」
K氏は困ったように笑う。「他に誰がいるんですか?」
何も言えなかった。修理代金を払い、自転車を受け取って一刻も早くここを出ることにした。
『また来てくださいね』
背中にかけられた声に、Sさんは振り向けなかった。
あの、穴の開いた男の声に聞こえたからだ。
SさんはそれからKサイクルには行っていないという。