分類ポイントB〈結末〉のつけ方

「いかに犯人が捕まるか」というポイントは、先述した通り「探偵役の描き方」にも関わってきます。

「犯人の破滅にどれだけ探偵が寄与しているか」ということでもあるからです。

ここでは大きく、「動かぬ証拠型」「罠型」のふたつに分類します。

1)動かぬ証拠型

文字通り、犯人が気づかなかったミス・残してしまった証拠が最後に明かされるというスタイルです。
この型の大きな特徴としては「探偵役」が必須ではないことが挙げられます。

犯人の破滅は、つまり「犯人にとって何が盲点になっていたか」というパーソナルな問題に還元されるので、謎を解く外部の人間が必要ないんですね。
そのため構成がシンプルな、短編に作例の多いプロットです。

犯人を裁くのは「神の意志」あるいは「犯人自身」だ、というちょっと運命論的なニュアンスを孕んでいるのがポイントですね。
私はこの型の理想形は、「犯人の見落としの理由」が、犯人の生き様や犯行動機と呼応していて「こういう人だったからこういう結末を迎えたのだ」と、犯人の物語として綺麗に締めくくられる作品だと思っています。
コロンボの小説オリジナル作品(没シナリオの小説化だったので、のちに映像化はしましたが……うーん)『カリブ海殺人事件』は、その美しい結構を備えた傑作と思っています。

この形式の元祖は、町田先生のツイートでも触れられている通り、ポーの「黒猫」だと思いますが、ひとつのジャンルにまでのし上げたのはやはりヴィカーズの「迷宮課」シリーズでしょう。

さまざまなアンソロジーに採られている「百万に一つの偶然」(同名短編集他所収)など、「トリックやフーダニットの謎がなくても、〈証拠の意外性〉一発で面白いミステリは書ける!」と証明した、エポックメイキングなシリーズだと思います。

日本で言えば鮎川哲也先生が、このタイプの倒叙で良作短編を数多く残されています。


2)罠型

一方で「罠型」とは、そのままずばり、「探偵役が犯人に自滅的・自白的行動を取らせるような罠を仕掛ける」という決着のつけ方をとる作品を指します。「逆トリック」なんて言葉が使われたりもしますね。

例を挙げれば、「発見された凶器が犯人の捨てたものであることを証明するために、凶器の発見場所を『明日捜索する』と犯人に告げ、その夜にでも犯人が凶器を回収しに来るのを待ち構える」といったパターンですね。

刑事コロンボ(旧シリーズ)では約半数の作品が、コロンボさんが罠を仕掛けて犯人を捕まえる結末なのに対し、実は古畑任三郎においては「犯人を罠にかける」回は実は意外に少数派(各シーズン3回前後)であることが、両作品の性格の違いを端的に示していると言えるかもしれません。

前項で触れた『殺人処方箋』の原型「愛しき罪体」を最初にTVドラマ化した時のタイトルは「Enough Rope」、これは英語圏の慣用句“give a person enough rope”(勝手に行動させて自滅するよう仕向ける)から採られています。
コロンボはそのスタート地点から、「犯人への罠」に特化した物語であることを企図していたと言えるかもしれません。

→「誰がパート④まで書けって言った!バカ!」
「良いでしょみんな『マッドマックス 怒りのデスロード』好きでしょ?」

前回、「倒叙ミステリ」という言葉について、

〈ざっくり「刑事コロンボみたいなやつ」と言ってしまうと取りこぼしてしまう豊かさがある、もっと広いジャンルなんじゃないか/ジャンル名と言うより「形式名」だろう〉

という問題提起(だから偉そうだってば)をしてみました。


②じゃあ「コロンボみたいなやつ」「古畑みたいなやつ」ってなんて呼ぶのよ?


その上でこっちが本編と言いますか、

「だからこそ、『倒叙』というジャンル名でくくられているものを、もっと細かく分類した方が読む人に親切では?」

という提案として、分類案をまとめてみました!

オーソドックスな「倒叙」は大きく、〈探偵サイドの描き方〉〈結末〉の2つのポイントで分類が可能だと思います。

新たに新保博久先生と町田暁雄先生が「倒叙」に関して考察された連ツイを拝読しまして大喜びしてますので、それに関するお話も。


分類ポイントA〈探偵サイドの描き方〉

古今東西「人殺しを主人公にした物語」は山ほどある訳です。それこそ聖書とか。
私は倒叙過激派なので、そういうものの中で、前項でまとめた乱歩が言うところの

「殺人者視点で描かれる作品の中で、探偵小説的興味(トリックなど犯行経路の面白さとサスペンスなどなど……)を色濃く含むもの」

は、なんでもガンガン倒叙と呼んで人に勧めたりしてたわけですが。

町田先生の〈潜在する倒叙〉〈発明された倒叙〉分類は非常に分かりやすく、重要な指針となるものではあるものの、ここで私の企図するのはブックガイド的な分類なので、作者論ではなくテクスト論的に進めていきたいと考えています。

なぜなら「前項で言う『ノワールミステリ』については、作者が倒叙と思って書いたかどうかは作品を楽しむ側には関係ない」からで(「倒叙と思って書いている作品」は当然、その作者の「志向する倒叙のパターン」を前提に書かれているのでより鮮明にジャンル分けできるのは無論ですが)、

ある作品の魅力に触れて「この作品みたいなやつが他にあるならそれも読みたい!知りたい!」という人のニーズに答えられるような、「読む側」基準の分類を想定しています。

さて。ジャンル史として、何を以って「倒叙ミステリ」を呼び分けてきたかと言うと、ひとつは「作中に〈事件を解決するキャラクター〉が登場するか」というのが分かりやすいポイントだったろうと思います。探偵役が出てくるなら探偵小説だろうと。

そして探偵役がどう描かれるかで、まず分類が可能だと思います。
端的に言えば「対決感」の有無ですね。

後述する〈結末〉のつけ方、「いかに犯人が捕まるか」にも関わってくるのですが、倒叙には必ずしも「探偵役とのディスカッションドラマ」が必要な訳ではありません。実際、最後に犯人を逮捕する時にだけやって来る探偵役というのもいる訳です。

しかし、多くの人にとって、「探偵との対決」感こそ倒叙ミステリの華、「古畑っぽい」「コロンボっぽい」と感じる要素なのではないかと思います。私も大好きです!

完璧に思えた偽装工作の些細な矛盾をめぐる言葉の攻防、些細な嘘がさらに矛盾を生み、犯人を追い詰めていくサスペンス……!!!!

この形の原型は、『罪と罰』におけるラスコーリニコフ君とポルフィーリー予審判事の論戦だと言われており、特に「刑事コロンボ」については、クリエイターのレビンソン&リンクが様々なインタビューで「コロンボのモデルのひとりはポルフィーリー判事」だと明言しています。

刑事コロンボ第1作『殺人処方箋』の「大元の大元」は、1960年の『ヒッチコック・マガジン』に掲載された「愛しき罪体」という短編小説でした。
アリバイ工作を弄した犯人の計画と、その破綻を描いたショートストーリーで、町田先生によればトリックの内容はのちの『殺人処方箋』とそう変わりないものの、探偵役にあたる刑事はラスト1ページにしか登場しないそうです。

(マーク・ダヴィットジアク『刑事コロンボの秘密』によると、物語は刑事が犯人を逮捕するために家にやってきてドアをノックするところで終わるのだそうで、元々のタイトルも「入ってもよろしいですか」というものだったそうです。
私は読めていないのですが、『太陽がいっぱい』や『サブウェイパニック』のような、「犯人の破滅が観客に予期できた瞬間に切れ味鋭くエンドカード!」というタイプの作品だったのでしょうね)

これを60分のテレビドラマに仕立て直し、さらに演劇作品にしたものが『殺人処方箋』の原型で、「犯行計画とその破滅」だけでは30分ぐらいで終わってしまうので「あと30分」を埋めるために追加された要素が「犯人と刑事の論戦」だったというわけです。

あくまで私の見立てなのですが、レビンソンとリンクはそもそもは「倒叙観」(勝手な言葉をつくるな)としては乱歩にも近い「犯人の物語だから面白い」派だったんじゃないかと思っていまして、
本人たちの意図とは関係なく作劇上の要請から加わった要素が、コロンボさんという魅力的なキャラクターの誕生につながり、『刑事コロンボ』を特別な作品にしてくれたというのは面白いですよね。

三谷幸喜さんが「俺なりの新・刑事コロンボ」として始めた『古畑任三郎』はじめ、大倉崇裕先生の「福家警部補」シリーズや、深水黎一郎先生の『倒叙の四季』、倉知淳先生の『皇帝と拳銃と』、香納諒一先生の『完全犯罪の死角』など、「コロンボオマージュ」を銘打った作品は、いずれもこの「対決感」をこそフィーチャーしていることからも、コロンボを代表として「対決型倒叙」とサブジャンル名をつけちゃって良いくらいだと思います。

→バックトゥザフューチャーもやってたことだしパート③まで付き合って!

クソアフィブログみたいなタイトルをつけてしまった……。

今日は私が好きな「倒叙ミステリ」について、そのジャンル史的な話をざっと。

先日、新保博久先生などさまざまな方と倒叙ミステリについてツイッター上でおしゃべりしまして。
やっぱりジャンル名(定義づけ)と紹介のされ方が、けっこう実態と解離しちゃってるんじゃないかなぁと感じ、なんとなく自分の中で考えがまとまったので、ツイートを再構成する形でちょっと長い文章に仕立ててみました。

「倒叙ミステリってなに?」と訊かれると、これまで私たちミステリファンはだいたい、「古畑任三郎みたいなやつ」「刑事コロンボみたいなやつ」って答えてきたと思うんです。

知ってる人の多いビッグタイトルだから、分かりやすいと思って例に挙げる訳です。
「犯人視点を中心に描かれる作品のことだよ」という特徴が分かってもらいやすいですから。

ニコニコ大百科でも。(ニコニコに「倒叙」って項目あるんだ……)

ただ、そう答えることによって「狭まってしまう」ジャンル観があるんじゃないかというのが今回の問題提起(そんな大層なもんか)でして、「倒叙ってそれだけじゃないよ」ってことが言えたら良いなと思います!



①「倒叙」って言い出したのは誰なの?

七尾与史先生がおっしゃってたんですが、「倒叙」って広辞苑にも載ってる単語なんですよ。

【倒叙】  推理小説で、犯人の側から書く手法。

上記の用法として「倒叙」という言葉を初めて使ったのは江戸川乱歩です。
というか、乱歩による訳語なんですよね。

「倒叙」についてミステリ辞典的な本で引くと、だいたい「オースティン・フリーマンの『歌う白骨』が元祖」と紹介されていると思うのですが、この「元祖」フリーマンが『歌う白骨』の序文で「実験的にinverted detective storyを書いてみたよ」と書いているのをそのまま直訳して、「さかさまになった探偵小説」ということで「倒叙探偵小説」と呼んだのが乱歩なのです。(「倒叙探偵小説」「倒叙探偵小説再説」/『幻影城』他所収)

その言葉を使って乱歩が激ダイマしているのがフランシス・アイルズ(アントリー・バークリー)の『殺意』(1931年)。(amazonで買えないけどもしかして絶版……?ちょうおもしろいのに)

『殺意』は、ざっくり言うと奥さんにウンザリしているお医者さんが、恋した若い女の子と一緒になるために奥さんを自身の過失による事故に見せかけて殺すんですが……というお話です。

バチバチのダイレクトマーケティングエッセイ「倒叙探偵小説」にて、乱歩は『殺意』をドストエフスキー『罪と罰』との対比で見ています。

確かに『殺意』は、「自分を抑圧する『老いた女』を殺し、『新しい女』と一緒になる」話として、『罪と罰』の思想をグッと明け透けに語り直した物語と読めなくはなく、ラストも「自身の罪と罰を受け入れるか否か」と、それに対する「神の采配」を感じさせるエンドとして対になっているように読めますから(アイルズ自身が『罪と罰』の影響を語っていたかは寡聞にして知りませんが)、二作に類似性を見出し、比較対象にした乱歩はさすがに慧眼と思います。

というより乱歩はシンプルに、『罪と罰』をその思想性等はいったんカッコにくくって、「人殺しが色々計画したり刑事みたいなのに詰められてピンチになったりする話おもしれー!」と、エンタメとして楽しんでいたんだと思うんですけどね。

『罪と罰』をモチーフに書いた「心理試験」など読むと、それがビンビンに伝わってきます。

そもそも乱歩はミステリを書く時には、基本的に犯人に感情移入してる人だったんだと思うんですね。

乱歩が谷崎潤一郎の大ファンだったのは有名な話で、例えば「屋根裏の散歩者」の前半が「秘密」とそっくりだというのはよく知られたところですし、「殺人の罪が暴かれるのを犯人視点で描く話」として、「途上」を「日本が世界に誇れる探偵小説!」と大絶賛して(「春寒」など読む限り、谷崎はそれにやや引いてた)、そこに登場する「プロパビリティーの犯罪」というテーマを使って自身も「赤い部屋」を書いたりと、谷崎が描く「一線を踏み越えるに至る人間の心理」の物語、「タブーを冒す」という「内心の冒険」の物語が性癖ドストライクだったのは間違いないと思います。
怪人二十面相シリーズで性とリョナとショタに目覚めた私が言うんだから間違いない。

こちらは昔作ったクソみたいなエンタの神様風コラ画像
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なので、『殺意』を読んで「俺好みの人殺しの話書いてくれてありがとう……!!!」と悶えている乱歩の姿は、容易に想像できるところです。

強調したいのは、乱歩が「倒叙」という言葉(より正確に言えば「フリーマンが試みた形の近代型」という言い方)を使って『殺意』や、その後継作と彼が目している『クロイドン発12時30分』や『伯母殺人事件』を評した時に、彼が想定したジャンルのパースペクティブは「犯罪者(殺人犯、と限定しても良いかもしれません)視点で描かれるサスペンス作品の中で、探偵小説的興味を色濃く含むもの」くらいのものだったろうということです。

例えば『歌う白骨』の諸作と比較して『殺意』を「心理的スリルそのものが最大の特徴であって、非常に普通文学に接近している」(それを「近代型だ」と言っている)と評しています。

『罪と罰』と『殺意』を比較し、両者は別ジャンルだと論じる下記の文章のあたりからも窺えると思います。

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なので、「倒叙」は単に「ミステリ」という大枠の下のサブジャンルではなく、「ホラーミステリ」や「ファンタジーミステリ」という言葉に近い、越境的なジャンルを示したものだったのではないかと思うのです。
つまり「ノワールミステリ」とでも言いますか。

ちなみにフリーマンが『歌う白骨』の諸作で目指したところは、私見ですが「犯人の物語を描く」ことよりも、「科学捜査」さらには「近代的知性」への過信への警鐘だったのではないかと思います。

『歌う白骨』をはじめフリーマンのソーンダイク博士シリーズでは、好んで「他人に罪を擦り付ける」トリックや「冤罪」モチーフが扱われます。
科学捜査も万能じゃないよ、訳も分からず信じ込んじゃうと捏造や冤罪の温床になっちゃうよ!という警告が一義であって、だからこそ「捜査が間違った方向に進んでいる」ことを明示する必要があったがゆえの、inverted detective storyという形式だったのではないかと思います。
なので方向性としてはむしろ、エドガー・アラン・ポーの、マスメディアへの懐疑を織り込んだ「マリー・ロジェの謎」や、「迷信を切り開いた先にあるのは、『信じられる物語がない』という恐怖かもしれないけどね」という科学礼賛への皮肉が感じられる「モルグ街の殺人」のような、オーギュスト・デュパンものの諸作に近いのかもしれません。

なので、「同じ形式だよね!」というだけで、明らかに志向の違う『歌う白骨』と『殺意』を、ざっくばらんに「倒叙」という言葉でくくっちゃう乱歩もいい加減なのですが、だからこそ「倒叙と呼んで良いのはこういうものだけです」「〇〇みたいな作品は倒叙とは呼べない!」みたいな偏狭な言い方はせず、広さを容認して使うべきジャンル名と私は捉えています。
なんだったらば、「ミステリ」という語が実のところそうであるように、「ジャンル」ではなく単に「手法名」に過ぎない、それを使って「どんな物語が語られるか」のみが重要なのだとまで言って良いと。

※ちなフリーマンには「乱歩が喜びそうなタイプの倒叙(探偵との対決のスリル重視な作品)」にも、『ポッターマック氏の失策』という大傑作があったりします!


そしてまさかの2につづく!

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