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アニメ『はめふら』にわか考察ガチ勢による妄言つづきです!


②設定がよく分からない!中世ヨーロッパじゃないの?普通に電気とかちゃんとしたピアノとかあるけど? 

確かに作中で「中世ヨーロッパ風の異世界」と言われたりはしてるのですが……私は、下記の理由から『はめふら』の時代設定モデルを、現実世界における「1900年前後のヴィクトリア朝イギリス」だと推定しています。

1)電灯および「黒塗りのピアノ」があること

現実世界では、室内用の灯りに適した白熱電球は1878年にジョセフ・スワンによって発明されました(普及は、翌年のトーマス・エジソンによるフィラメントの改良に端を発する開発競争を経た20世紀初頭)。
また、1820年代には、ピアノは現代のものに近い形(モダンピアノ)にまで進歩していましたが、当時のヨーロッパにおいては、素材の木目を生かした仕上げにするのが一般的だったそうです。
アラン様が弾いているような「黒塗りのピアノ」が登場するのは1900年代初頭から。日本でピアノが国内製造されるようになった時に、多湿な日本では、表面が未加工だと湿気を吸ってしまうこと、さらに木目を気にせず大量生産ができるようにという要請から、漆で表面を処理することが発案されたのが契機と言われています。

「室内灯」と「黒塗りのピアノ」という2つの「発明品」が、少なくとも貴族階級には普及していることを考え、「現実世界でいう1900年前後」という設定と推測しました。

2)おそらく退廃主義が流行っていること

ソフィア様たちの読んでいるロマンス小説が、身分違いの恋や同性愛といった、「おそらくはタブーと扱われているだろうテーマを描いた、セクシュアルな興味を掻き立てる作品」ばかりで、あの世界では活版印刷による本の生産体制の確立の下、そうした「インモラルな小説」が流行になっていることを考えると、おそらくはオスカー・ワイルド的な耽美主義・退廃主義が一世を風靡した時代なのだと思われます。
現実世界における19世紀末の文化ですから、時期として上記と矛盾しません。

3)現代的なスーツ・ネクタイがあること

この世界の貴族の使用人たちの服装を見て友人に「洋服の青山異世界店」と言われて笑っちゃったのですが、現代的なスーツの原型が完成したのは19世紀半ばと言われています。
室内で着用する簡易な平服として考案された「ラウンジジャケット」(ここで言う「ラウンジ」は紳士がくつろぐ「スモーキングルーム」のことです)がベースとなり、19世紀末には現代のシングルスーツとほぼ同じ形のものが存在していました。(『ストランド・マガジン』のシャーロック・ホームズ譚の挿絵などでも確認できます)
ネクタイなど、現代的な着こなしが確立しているということはこの世界は、こっちでいう「ボー・ブランメル以降」なのでしょう。

上記3点および、ソルシエ王国がイギリス系という前項の考察から、「1900年前後のヴィクトリア朝イギリスが時代背景のイメージ元なのではないか」と考えています。砂糖の価格が下落し、紅茶とともに甘い焼き菓子が食べられるようになったのもこのへんですしね。
『はめふら』のみんなが推理小説を読んでいるような話は出てきませんが、もしかするとソフィア様が同性愛の出てこない作品に関心がないだけで、「名探偵もの」だってあの世界にもあるかもしれませんね。


③近代イギリスっぽい世界観で、学校が春スタートで夏休みって概念あるの変じゃない?

これも、そこまで気にする必要はないと思うんですよね。

そもそも、欧米の学校制度設計をモデルにしたのに、なんで日本では秋始まりじゃなくて春始まりなのかというと、調べてみると明治時代に、予算や税の年度が4~3月に固定された時に、学校もそれに合わせて4月はじまりになった(当時の学校はすべて国立なので、国の予算執行のカレンダーに合わせた)んだそうです。

では、なぜ税の年度が3月締なのかと言えば、それは単純な話で当時、最も多くの国民が従事していた「米づくり」のカレンダーに合わせたんですね。
10月に収穫し、年末にかけて売って現金化し、それを年を越えてから帳簿につけて収支の整理がつくのが、まあ2月くらいだろうということで3月締めにしたと。

なので、ソルシエ王国においても「イネのような秋に収穫期を迎える穀物が主要な生産物で、そのカレンダーに合わせる形で国の制度が運用されている」と思えば良いのだと思います。
現代日本と季節感が変わらないので、あの国は温帯の温暖湿潤気候なのでしょう。前述の「黒塗りのピアノ」とも整合性が取れますし。


④アニオリ要素おかしくね?

前述した通り、私はアニメ過激派で、どうやら井上圭介監督がアンカタ派兼あっちゃん推し勢、脚本の清水恵先生がマリカタ派であること以外は、それぞれに絶大な信頼を置いているので(私は不動のメアカタ孤島エンド原理主義者なので……)、原作ファンの方からなかなか文句を言われているアニオリのいくつかの展開も頑張って正当化したいわけです。

1)6話の湖に行くシークエンス、全員集合は無理では?

原作ではジオルド様と、それを追いかけてきたキース君しかいないので不自然はないのですが、夏休みでそれぞれの家にいるだろうに、距離的にアニメでの全員集合は(特にマリアさんが来るのは)無理があるんじゃないかと思うんです。
ですが!原作では比較的あっさりしたエピソードだったところに、王子兄弟とニコル様の関係性の明示&メアカタ補充という要素を追加してくれたのはもう大拍手としか言いようがないので(あと、単純にみんな一緒だと楽しい)、どうにか理屈をつけました。

・キース君がジオルド様の企みをアラン様から知ったのは、貴族の子弟の集まりの場だったので、メアリ様やソフィア様兄妹もいてもおかしくない

→カタリナ様がキース君に他のメンバーも集まりに出ていたことを確認した上で、「みんなで行こう」と言い出し、キース君がしょうがなく自分の乗ってきた馬車の従者に、集まりに戻ってみんなを迎えに行かせた

・湖は当然、王国の郊外にあり、第1話等の王国の外観を見るに、中央から周縁に向かって王宮→貴族の邸宅街→商業地区→郊外の住宅街という構造を有している

→マリアさんの町は湖までの通り道にあり、5話でマリアママを落としに行ったカタリナ様は当然、それを把握していたので迎えに寄れた

これで全員揃いますね!

2)7話、国の最上層の子弟たちをあんなインディ・ジョーンズみたいな殺人装置遺跡に送り込まないでしょ

端的にほんそれなんですよね。
でもでも!あそこでカタリナ様を「手を掴んでいるソフィア様まで落ちてしまうと思ったら『手を放して』とあっさり言える人」だと描いておくことが、10話で「こんな結末を迎えるくらいなら私一人で破滅した方がどれほど良かったか」と言わせる上で絶対に説得力が増しますし、あと「そういえばこのアニメ全然魔法出てこねえな」と、製作陣の方々もちょっと不安になったんだと思うんですよね。

カタリナ様の「いざとなったら自分が犠牲になってでも人を助けたい」が嫌味なく出るところ、本当に本当に好き。

「二度目の人生もの」なら、フラグを回避するための打算で動く人の話にしても良かったものを、毎回「体が勝手に動いちゃって/欲望のままに考えなしに動いちゃって」という描き方にしたってのが何せ素晴らしい。「掛け値なしの純粋な好意から出た突飛な言動が、周りの人々に良い影響を与えていく」という、それは一種『フォレスト・ガンプ』的な反知性主義なんですが、「影響を与えられた側」の視点から描くことで「善」の押しつけがましさがないんですよね。

小説が「カタリナ様にはこう見えていた」「相手にはこう見えていた」の、ある種問題編-解決編の一問一答のような構造を取っているのに対し、コミカライズ・アニメは絵がある強みでそれを一画面で展開するために、原作以上に「読者をカタリナ様に寄り添わせない」ことに成功してる。これってかなり大事なポイントだと思います。
カタリナ様が、「共感の対象である視点人物」でなく「各人の物語の狂言回し」として存在するから、私たちは彼女を愛せるんだと思うんですね。

さらにさらに!だからこそ12話の「みんながそばにいてくれたから頑張れた」と、彼女に対してみんなが思っていることを、彼女自身もみんなに感じていたのだという種明かし、ニュアンスは全然違いますが『フルーツバスケット』なんかに構造は近いのかもしれない、一種の「人間宣言」が心を打つんですよ!

なんだっけ。そう、7話のクソダンジョンですよ。
ただ、物語は終盤においてああいう展開を迎えるわけですから、本来ならあるはずのセーフティネットや解除されていたトラップが、会長によって操作されて危険度が増してた可能性はあるんですよね。(監督生として試験に関わっていましたし、カタリナ様を助けたのは会長なんでしょうし……)8話の「公式が供給してきた薄い本の導入部分」こと欲望の魔法書の件も、あの図書室にカタリナ様たちが行くよう仕向けたのは会長ですからね。

まあ、この世界はゲームの世界なので「こういうミニゲームがあったんだろうな」って言っちゃえばそれまでなのですが。


3)11話、カタリナ様が昏睡してから誰もマリアさんのこと心配してないのはあまりに可哀想じゃない?

アニオリではないですが……これは「描かれてない」だけだと思ってます。みんな、カタリナ様のことを世界で一番大事に思ってるのは当然ですが、マリアさんを生徒会の大切な仲間だと思っていることも疑いたくないので。

ジオルド様の口ぶりだと探索はちゃんと続けてそうですし、おそらく、昼間は引き続きみんなでマリアさんの行方を捜査しながらも、闇の魔法が関わっていることが分かったために「単独行動はしない/暗くなったら危険なので探索はやめる」というルールを設けたんだと思うんです。だから夜になると、それぞれの報告も兼ねて集合し、カタリナ様の様子を見に行ってる……って感じだと。
これは推測ですが、会長も探索に参加しながら、倉庫の周辺は探さないよう、それとなく誘導していたくらいのことはありそうです。

とりあえず!考察班としてはこんなところです。後半はただただ妄想のつじつま合わせですが……。

さっ!!では次回「私があの学園のモブ令嬢だったらカタリナ様にどう落とされたいか」発表会でお会いしましょう!!!

アニメ『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』(『はめふら』)に死ぬほどハマッていたわけです。
きっかけは外出制限下で友人たちと毎週末やっていたオンライン映画鑑賞会で、誰かのオススメでみんなで観始めたのですが、第2話時点では、

「へええ。私みたいな外の人間が『なろう系』『異世界転生もの』って一括りに思っているジャンルも、これだけ多様な切り口の作品があるんだなぁ……なかなか主人公に好感が持てるし、面白い作品じゃないの」

くらいには冷静だった私が、11話を観終わる頃には原作小説もコミカライズもピンナップと内田真礼さんのインタビューが載ってるアニメージュも全部買った上で、

「カタリナ様!私を置いていかないでください!再来週にはカタリナ様と会えなくなってしまうなんて!貴方のいない世界で私はどうやって生きていけば良いのですか!?」

と号泣するくらいには平静を失っていたわけですね。
二期の報がなかったらどうなってたか分かりませんよ本当。
百合アンソロも本当に楽しみ。なんでそんなに顧客が本当に欲しかったものを形に出来るの?担当編集の人ウォルト・ディズニーの生まれ変わりなの?

この一か月は、仕事しながらも「私があの学園のモブ令嬢だったらカタリナ様にどう落とされたいか」ばっかり考えていました。

私は新興の伯爵家の一人娘で、容姿も魔力も大したことない、目立たない生徒なんですね。
さる侯爵家の分家筋として男爵位を得ているに過ぎない家だったのが、父が鉱山経営で莫大な財を成し、王室に多額の献金をしたことで伯爵に取り立てられた経緯から、社交界では「金で爵位を買った成り上がり」と蔑まれ、その娘である私も幼い頃からやっかみ半分にずいぶんと辛いことを言われてきたんです。そんな私が唯一逃げ込めたのが、幼い頃から習っていた油絵だったのですが……

あっこれ長くなるな。本題に行きましょう。
今回はアニメ『はめふら』の、多くの人から「これはどういうことなの?」「これはおかしいんじゃないの?」とツッコまれそうなポイント……というか、私が「ん?」と思ったポイントについて、愛の力で死ぬほど理論武装して、私なりに考察した「回答」をまとめてみました。

※原作全巻買ったけどアニメで初見したいから3巻以降を買ったのに読んでないくらいのアニメ過激派なので、基本的にアニメ+原作およびコミカライズの当該範囲を元にしています。

「ナーロッパ」なんて言われて、舞台設定なんかはけっこういい加減なのかと思いきや、「意外に裏設定的にきっちり決められてるのでは……?」と感じたところも多く。



①ソルシエ王国ってどういう国なの?貴族の名づけ適当じゃない?

「ソルシエ」って国名はフランス語っぽいけど、王家の「スティアート」はじめ「ハント」とか「キャンベル」あたりは英語姓っぽいし、でも「クラエス」と「アスカルト」は英語っぽくないんだよな……下の名前も、他はみんなはとりあえず英語風だけど「カタリナ」だけ浮いてるし……

ここで「適当につけたんでしょ」と言わないのが過激派なので考察していきます!

現実世界におけるヨーロッパをモデルに、ソルシエ王国の位置する大陸には、血統・語族的に近い複数の民族・言語が隣り合っているのだと仮定すると、

まず、「ソルシエ」はフランス語のSorcier(魔法使い)が由来なのは間違いないでしょう。一応「剣と魔法の国」ですし。

「スティアート」は、「ステュアートStuart」の綴り替え・バリエーションでしょう(英語表記はそのままStuartですし)。王家ということで、14世紀からイングランド王家として君臨したステュアート家がモデルなのだと思われます。
史実のステュアート家はブルターニュの小貴族がルーツだそうなので、スティアート王家もフランス系(正確には「あの大陸におけるフランスにあたる地方」ですが)という設定があり、それが国号に現れているのかもしれません。

「ジオルドGeordo」はおそらく英語名(ジオルドという名は聞いたことがないのですが、おそらく「ジョージGeorge」のバリエーションなのでしょう。ギリシャ語起源の名で意味は「農夫/大地を耕す人」だそうで、カタリナ様ガチ勢のジオルド様は喜ぶと思います)ですが、「アランAlan」は英語名としてもフランス語名としても通用する名前ですし。

「クラエスClaes」はスウェーデンが起源の名前で、サンタクロースでおなじみ「クラウス」の向こうでの読み方・綴り方だそうです。姓としても、例えばベルギーでは比較的ポピュラーな名前だとか。ヨーロッパで言う「北の方の名前」なんですね。

おそらく「アスカルト」は北欧神話における神の国の名「アスガルドAsgard」がルーツと思うので、こちらも北欧系の姓だとカウントして良さそうです。

つまり、主要登場人物の姓は「イギリス系」「北欧系」に大きく二分できるということです。

「北欧系」が、王位継承の派閥争いで中立を許される格と力のあるクラエス家と(世襲があり得ると説明されている)宰相職に任命されているアスカルト家と、いずれも「名門」であること、この国では基本的に貴族の爵位名(領地名)と姓が一致していること、さらに、平民のマリアさんがいかにもイギリス系の「キャンベル」(Campbellはスコットランド由来だそうです)であることを考えると、

1)おそらくこの大陸には、覇権を握るような「大きな国家」(全盛期の神聖ローマ帝国的な)があり、スティアート家はその重臣として領土と支配権を安堵されて建国した立場なのではないか。

2)その領土は言語としてイギリス系に属しており、その統治にあたって、元はフランス系だったスティアート家およびその家臣たちは、国号こそフランス系にしたものの、自分たちは「現地化」した英語風の名に改めたのではないか。(ハント侯爵家やシェリー男爵家は、スティアート家から与えられた領地の地名から創氏したのかも?)

3)クラエス家とアスカルト家は、元はスティアート家と領土を隣接する、同格の「大きな国家」の貴族(彼らの姓・爵位名の由来になった領土は言語として北欧系)であり、同盟を結んだ「諸侯連合」という関係を経て、スティアート家の臣下にくだった経緯から特権的地位が保証されているのではないか。

さらに、魔法学園の学生寮が、「公侯伯」と「子男」で家柄で区別されており、伯爵家の一部も後者に入れられる場合があるという設定があるので、ソルシエ王国の貴族は

「A.スティアート家と本来同格な『大きな国家』における貴族」
「B.スティアート家の譜代家臣の中で、姻戚関係があるなど特に有力な家」
「C.その他のスティアート家の家臣、およびソルシエ王国の併合後に貴族に取り立てられた家」

の三種があり、クラエス家とアスカルト家がA、ハント家とシリウス家がB、シェリー家がCであり、伯爵以上は基本的にAとBの家が占めていて、時に家柄を越えて要職に抜擢されるなどした時に、Cの家から伯爵に上がることがある……という構造を想像してみました。

「大きな国家」の存在は、クラエス家の人々の名づけからも感じられるんですよね。
パパの「ルイジ」は明らかにイタリア系ですし、「カタリナ」もスペインもしくはイタリアっぽい読み・綴り方(英語で言う「キャサリン」に相当)なんです。
なので、自身のルーツと関係のない領土を支配していた感じがするので、地元の豪族が成長して貴族化したというより、ある王家の重臣が辺境伯として派遣されたパターンなのではないかと。
そして、スティアート家とその家臣たちがイギリス風に名を改めた今でも、クラエス家本家の人たちがイタリア風の名を代々名乗っているあたりに、うちはスティアート家に追従したりしないよ、っていう前述した「本来、同格かそれ以上だった家柄」というプライドが感じられるんですよね(分家のキース君は英語名なわけですし)。当主が代々「身分の隔てなく公平に扱う気さくな人」でいられるのも、「王家すら我が家からすれば格下」という、圧倒的貴族意識がベースにあるゆえなのかも。

ちなみにママの「ミリディアナ」は、Meridian(子午線)のバリエーションでしょうから英語名、生家の「アデス」もイギリス系の姓ですから、ソルシエ王国においてクラエス公爵家とも格が違わないというアデス公爵家は、Bの筆頭の家柄なのかもしれません。


はーい②につづくよ!
次回は「時代設定考察」と「6話と7話のアニオリ展開ヘンじゃね」話など!

コロンボオマージュの小説書いてる作家さん、全員コロンボさんの夢女説(大暴論/私はそうだよ)


③「ミステリの精度を高めるための倒叙」

町田先生の「発明された倒叙」という語、そしてそれを受けての新保先生の「本格の変奏としての『折り返し型倒叙』」とのお話を受け、倒叙という手法を用いたバリエーションのいくつかを語るにあたって、上記表題のようなまとめ方を考えてみました。

新保先生のお話で感銘したのは『クロイドン発12時30分』の立ち位置で、私は同作を『殺意』のバリエーション=『罪と罰』系譜にある作品としか捉えていなかったのですが、確かにクロフツらしい捜査小説の側面も強く表れている『クロイドン』は、『歌う白骨』の血脈もしっかり受け継いだ作品だと気づきました。

つまりは「ミステリのための倒叙」。「犯人があらかじめ特定されている」ことで、語りやすくなるミステリ的プロットというのがあり、そのために倒叙形式が取られるパターンをきちんと分類に含めねばなりません。

1)ハウダニット

 犯人による犯行の場面を書いておきながら、のちに捜査パートに転じると犯人には鉄壁のアリバイがあることになっている……トリック一発のハウダニットものを書く時に、冒頭に犯行シーンを置くことで「絶対に犯人はこいつなのに」と、より「謎」を鮮明にアピールできますし、作劇として「犯人がこいつ以外にいないというロジック」をスッ飛ばすことができるというメリットがあります。
 また、読者に先入観を与え、叙述トリックを仕掛けやすいというのも利点の一つでしょう(ただ、手法としてあまりに手垢がつきすぎて、最近ではむしろ「犯行シーンなく犯人っぽいやつのモノローグから始まる話」は逆にこいつ犯人じゃないんだろ、となる人も多いのでは……?)

 倒叙形式のハウダニットを書かせたら日本最強なのは、質・量ともに間違いなく東野圭吾先生です。『容疑者xの献身』『聖女の救済』『ブルータスの心臓』『美しき凶器』……いずれも犯人視点に欠落を与えることで、対決型倒叙のスリルと、ハウダニットや共犯者探しのフーダニットといったミステリ的興味を両立させています。
 また、このパターンの重要な作家として、『金田一少年の事件簿』『探偵犬シャードック』の樹林伸先生も外せません。ドタバタタッチな犯人の「隠し事コメディ」を展開させながら、トリック隠しで結末にひとつサプライズを用意する手法は、「毎回、読みどころがないと飽きられてしまう」連載漫画の形式に合っているのでしょうね。


2)ホワイダニット

 一方で犯人の視点で犯行が描かれているが動機が分からない、もしくは捜査パートで「妥当な動機」を示して読者をいったん納得させたうえで、最後に「隠された意外な動機」が明かされるというホワイダニットにおいても、「謎」の鮮明化とフーダニットスッ飛ばしという作話上のメリットは十分に発揮されますし、こちらは「犯人の物語」を強化するという意味でも、倒叙の形式にふさわしい「謎の立て方」と言えるかもしれません。

「古畑任三郎」にも、「動く死体」や「動機の鑑定」など、犯人の心理のドラマに焦点を当てた名作がいくつもありますね。

「犯人の心理の物語」にトリックが仕掛けられている作品といえば、連城三紀彦先生の短編に傑作が多く(これは倒叙形式のものに限った話ではないですが)、最近の良作だと伽古屋圭市先生の『散り行く花』、降田天先生の『偽りの春』が素晴らしい収穫でした。

ハウダニット特化もホワイダニット特化も、「犯人の物語を見てきた」という読者の油断と先入観が鮮やかに裏切られるときに、その形式で描かれた物語の本領があるように思われます。
これらに分類名を振るならば、「不完全視点型」と言ってみましょうか。


本当に死ぬほど長くなってしまったので、このあたりで私論をまとめたいと思います。

①「倒叙ミステリ」はジャンル名でなく「形式名」であり、名づけた乱歩も幅広さを前提にしていたはずだから「これが倒叙の王道」「〇〇は倒叙ミステリじゃない」と言う必要はないんじゃないか。

さらに、町田先生のご意見を引き
②倒叙ミステリという「形式」で書かれた作品を「大ジャンル」でくくるとすれば
「犯罪者視点で描かれる物語の中で、ミステリ的興味(トリック、ホワイダニット、ハウダニット、ロジックなどなど……)が色濃いもの」(越境ジャンルとしての「倒叙」=「ノワールミステリ」)
「倒叙の手法を用いることでミステリ的プロットの精度を高めているもの」(「ミステリのための倒叙」)
とするのが妥当ではなかろうか。

「人に自分の推し作品をオススメしたい」or「自分が好きなタイプの作品を探したい」時に、目安になるジャンル内の分類として
・対決型
・動かぬ証拠型
・罠型
・不完全視点型
の諸要素を抽出したい。
※無論、多くの作品が複数の要素を兼ね備えていることを前提に、「この要素が強いやつが好き!」という言い方で
※推理作家によって書かれた作品でも、倒叙形式によるサスペンス感や「犯人の物語」を描くことを重視した作品は「ノワールミステリ」に分類

今まで名前を挙げた作品を例にすると:

・ヴィカーズ「百万に一つの偶然」は、「ノワールミステリ」で動かぬ証拠型
・「刑事コロンボ 別れのワイン」は、「ノワールミステリ」で対決型かつ罠型
・東野圭吾『容疑者xの献身』は、「ミステリのための倒叙」で対決型かつ不完全視点型

といった感じに類別すると、特にオススメ作品の布教と創作をするときに「作品の立ち位置」「自身が好きな作品系統」を語りやすく……ならないかなぁ?

分類ポイントB〈結末〉のつけ方

「いかに犯人が捕まるか」というポイントは、先述した通り「探偵役の描き方」にも関わってきます。

「犯人の破滅にどれだけ探偵が寄与しているか」ということでもあるからです。

ここでは大きく、「動かぬ証拠型」「罠型」のふたつに分類します。

1)動かぬ証拠型

文字通り、犯人が気づかなかったミス・残してしまった証拠が最後に明かされるというスタイルです。
この型の大きな特徴としては「探偵役」が必須ではないことが挙げられます。

犯人の破滅は、つまり「犯人にとって何が盲点になっていたか」というパーソナルな問題に還元されるので、謎を解く外部の人間が必要ないんですね。
そのため構成がシンプルな、短編に作例の多いプロットです。

犯人を裁くのは「神の意志」あるいは「犯人自身」だ、というちょっと運命論的なニュアンスを孕んでいるのがポイントですね。
私はこの型の理想形は、「犯人の見落としの理由」が、犯人の生き様や犯行動機と呼応していて「こういう人だったからこういう結末を迎えたのだ」と、犯人の物語として綺麗に締めくくられる作品だと思っています。
コロンボの小説オリジナル作品(没シナリオの小説化だったので、のちに映像化はしましたが……うーん)『カリブ海殺人事件』は、その美しい結構を備えた傑作と思っています。

この形式の元祖は、町田先生のツイートでも触れられている通り、ポーの「黒猫」だと思いますが、ひとつのジャンルにまでのし上げたのはやはりヴィカーズの「迷宮課」シリーズでしょう。

さまざまなアンソロジーに採られている「百万に一つの偶然」(同名短編集他所収)など、「トリックやフーダニットの謎がなくても、〈証拠の意外性〉一発で面白いミステリは書ける!」と証明した、エポックメイキングなシリーズだと思います。

日本で言えば鮎川哲也先生が、このタイプの倒叙で良作短編を数多く残されています。


2)罠型

一方で「罠型」とは、そのままずばり、「探偵役が犯人に自滅的・自白的行動を取らせるような罠を仕掛ける」という決着のつけ方をとる作品を指します。「逆トリック」なんて言葉が使われたりもしますね。

例を挙げれば、「発見された凶器が犯人の捨てたものであることを証明するために、凶器の発見場所を『明日捜索する』と犯人に告げ、その夜にでも犯人が凶器を回収しに来るのを待ち構える」といったパターンですね。

刑事コロンボ(旧シリーズ)では約半数の作品が、コロンボさんが罠を仕掛けて犯人を捕まえる結末なのに対し、実は古畑任三郎においては「犯人を罠にかける」回は実は意外に少数派(各シーズン3回前後)であることが、両作品の性格の違いを端的に示していると言えるかもしれません。

前項で触れた『殺人処方箋』の原型「愛しき罪体」を最初にTVドラマ化した時のタイトルは「Enough Rope」、これは英語圏の慣用句“give a person enough rope”(勝手に行動させて自滅するよう仕向ける)から採られています。
コロンボはそのスタート地点から、「犯人への罠」に特化した物語であることを企図していたと言えるかもしれません。

→「誰がパート④まで書けって言った!バカ!」
「良いでしょみんな『マッドマックス 怒りのデスロード』好きでしょ?」

前回、「倒叙ミステリ」という言葉について、

〈ざっくり「刑事コロンボみたいなやつ」と言ってしまうと取りこぼしてしまう豊かさがある、もっと広いジャンルなんじゃないか/ジャンル名と言うより「形式名」だろう〉

という問題提起(だから偉そうだってば)をしてみました。


②じゃあ「コロンボみたいなやつ」「古畑みたいなやつ」ってなんて呼ぶのよ?


その上でこっちが本編と言いますか、

「だからこそ、『倒叙』というジャンル名でくくられているものを、もっと細かく分類した方が読む人に親切では?」

という提案として、分類案をまとめてみました!

オーソドックスな「倒叙」は大きく、〈探偵サイドの描き方〉〈結末〉の2つのポイントで分類が可能だと思います。

新たに新保博久先生と町田暁雄先生が「倒叙」に関して考察された連ツイを拝読しまして大喜びしてますので、それに関するお話も。


分類ポイントA〈探偵サイドの描き方〉

古今東西「人殺しを主人公にした物語」は山ほどある訳です。それこそ聖書とか。
私は倒叙過激派なので、そういうものの中で、前項でまとめた乱歩が言うところの

「殺人者視点で描かれる作品の中で、探偵小説的興味(トリックなど犯行経路の面白さとサスペンスなどなど……)を色濃く含むもの」

は、なんでもガンガン倒叙と呼んで人に勧めたりしてたわけですが。

町田先生の〈潜在する倒叙〉〈発明された倒叙〉分類は非常に分かりやすく、重要な指針となるものではあるものの、ここで私の企図するのはブックガイド的な分類なので、作者論ではなくテクスト論的に進めていきたいと考えています。

なぜなら「前項で言う『ノワールミステリ』については、作者が倒叙と思って書いたかどうかは作品を楽しむ側には関係ない」からで(「倒叙と思って書いている作品」は当然、その作者の「志向する倒叙のパターン」を前提に書かれているのでより鮮明にジャンル分けできるのは無論ですが)、

ある作品の魅力に触れて「この作品みたいなやつが他にあるならそれも読みたい!知りたい!」という人のニーズに答えられるような、「読む側」基準の分類を想定しています。

さて。ジャンル史として、何を以って「倒叙ミステリ」を呼び分けてきたかと言うと、ひとつは「作中に〈事件を解決するキャラクター〉が登場するか」というのが分かりやすいポイントだったろうと思います。探偵役が出てくるなら探偵小説だろうと。

そして探偵役がどう描かれるかで、まず分類が可能だと思います。
端的に言えば「対決感」の有無ですね。

後述する〈結末〉のつけ方、「いかに犯人が捕まるか」にも関わってくるのですが、倒叙には必ずしも「探偵役とのディスカッションドラマ」が必要な訳ではありません。実際、最後に犯人を逮捕する時にだけやって来る探偵役というのもいる訳です。

しかし、多くの人にとって、「探偵との対決」感こそ倒叙ミステリの華、「古畑っぽい」「コロンボっぽい」と感じる要素なのではないかと思います。私も大好きです!

完璧に思えた偽装工作の些細な矛盾をめぐる言葉の攻防、些細な嘘がさらに矛盾を生み、犯人を追い詰めていくサスペンス……!!!!

この形の原型は、『罪と罰』におけるラスコーリニコフ君とポルフィーリー予審判事の論戦だと言われており、特に「刑事コロンボ」については、クリエイターのレビンソン&リンクが様々なインタビューで「コロンボのモデルのひとりはポルフィーリー判事」だと明言しています。

刑事コロンボ第1作『殺人処方箋』の「大元の大元」は、1960年の『ヒッチコック・マガジン』に掲載された「愛しき罪体」という短編小説でした。
アリバイ工作を弄した犯人の計画と、その破綻を描いたショートストーリーで、町田先生によればトリックの内容はのちの『殺人処方箋』とそう変わりないものの、探偵役にあたる刑事はラスト1ページにしか登場しないそうです。

(マーク・ダヴィットジアク『刑事コロンボの秘密』によると、物語は刑事が犯人を逮捕するために家にやってきてドアをノックするところで終わるのだそうで、元々のタイトルも「入ってもよろしいですか」というものだったそうです。
私は読めていないのですが、『太陽がいっぱい』や『サブウェイパニック』のような、「犯人の破滅が観客に予期できた瞬間に切れ味鋭くエンドカード!」というタイプの作品だったのでしょうね)

これを60分のテレビドラマに仕立て直し、さらに演劇作品にしたものが『殺人処方箋』の原型で、「犯行計画とその破滅」だけでは30分ぐらいで終わってしまうので「あと30分」を埋めるために追加された要素が「犯人と刑事の論戦」だったというわけです。

あくまで私の見立てなのですが、レビンソンとリンクはそもそもは「倒叙観」(勝手な言葉をつくるな)としては乱歩にも近い「犯人の物語だから面白い」派だったんじゃないかと思っていまして、
本人たちの意図とは関係なく作劇上の要請から加わった要素が、コロンボさんという魅力的なキャラクターの誕生につながり、『刑事コロンボ』を特別な作品にしてくれたというのは面白いですよね。

三谷幸喜さんが「俺なりの新・刑事コロンボ」として始めた『古畑任三郎』はじめ、大倉崇裕先生の「福家警部補」シリーズや、深水黎一郎先生の『倒叙の四季』、倉知淳先生の『皇帝と拳銃と』、香納諒一先生の『完全犯罪の死角』など、「コロンボオマージュ」を銘打った作品は、いずれもこの「対決感」をこそフィーチャーしていることからも、コロンボを代表として「対決型倒叙」とサブジャンル名をつけちゃって良いくらいだと思います。

→バックトゥザフューチャーもやってたことだしパート③まで付き合って!

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