クソアフィブログみたいなタイトルをつけてしまった……。

今日は私が好きな「倒叙ミステリ」について、そのジャンル史的な話をざっと。

先日、新保博久先生などさまざまな方と倒叙ミステリについてツイッター上でおしゃべりしまして。
やっぱりジャンル名(定義づけ)と紹介のされ方が、けっこう実態と解離しちゃってるんじゃないかなぁと感じ、なんとなく自分の中で考えがまとまったので、ツイートを再構成する形でちょっと長い文章に仕立ててみました。

「倒叙ミステリってなに?」と訊かれると、これまで私たちミステリファンはだいたい、「古畑任三郎みたいなやつ」「刑事コロンボみたいなやつ」って答えてきたと思うんです。

知ってる人の多いビッグタイトルだから、分かりやすいと思って例に挙げる訳です。
「犯人視点を中心に描かれる作品のことだよ」という特徴が分かってもらいやすいですから。

ニコニコ大百科でも。(ニコニコに「倒叙」って項目あるんだ……)

ただ、そう答えることによって「狭まってしまう」ジャンル観があるんじゃないかというのが今回の問題提起(そんな大層なもんか)でして、「倒叙ってそれだけじゃないよ」ってことが言えたら良いなと思います!



①「倒叙」って言い出したのは誰なの?

七尾与史先生がおっしゃってたんですが、「倒叙」って広辞苑にも載ってる単語なんですよ。

【倒叙】  推理小説で、犯人の側から書く手法。

上記の用法として「倒叙」という言葉を初めて使ったのは江戸川乱歩です。
というか、乱歩による訳語なんですよね。

「倒叙」についてミステリ辞典的な本で引くと、だいたい「オースティン・フリーマンの『歌う白骨』が元祖」と紹介されていると思うのですが、この「元祖」フリーマンが『歌う白骨』の序文で「実験的にinverted detective storyを書いてみたよ」と書いているのをそのまま直訳して、「さかさまになった探偵小説」ということで「倒叙探偵小説」と呼んだのが乱歩なのです。(「倒叙探偵小説」「倒叙探偵小説再説」/『幻影城』他所収)

その言葉を使って乱歩が激ダイマしているのがフランシス・アイルズ(アントリー・バークリー)の『殺意』(1931年)。(amazonで買えないけどもしかして絶版……?ちょうおもしろいのに)

『殺意』は、ざっくり言うと奥さんにウンザリしているお医者さんが、恋した若い女の子と一緒になるために奥さんを自身の過失による事故に見せかけて殺すんですが……というお話です。

バチバチのダイレクトマーケティングエッセイ「倒叙探偵小説」にて、乱歩は『殺意』をドストエフスキー『罪と罰』との対比で見ています。

確かに『殺意』は、「自分を抑圧する『老いた女』を殺し、『新しい女』と一緒になる」話として、『罪と罰』の思想をグッと明け透けに語り直した物語と読めなくはなく、ラストも「自身の罪と罰を受け入れるか否か」と、それに対する「神の采配」を感じさせるエンドとして対になっているように読めますから(アイルズ自身が『罪と罰』の影響を語っていたかは寡聞にして知りませんが)、二作に類似性を見出し、比較対象にした乱歩はさすがに慧眼と思います。

というより乱歩はシンプルに、『罪と罰』をその思想性等はいったんカッコにくくって、「人殺しが色々計画したり刑事みたいなのに詰められてピンチになったりする話おもしれー!」と、エンタメとして楽しんでいたんだと思うんですけどね。

『罪と罰』をモチーフに書いた「心理試験」など読むと、それがビンビンに伝わってきます。

そもそも乱歩はミステリを書く時には、基本的に犯人に感情移入してる人だったんだと思うんですね。

乱歩が谷崎潤一郎の大ファンだったのは有名な話で、例えば「屋根裏の散歩者」の前半が「秘密」とそっくりだというのはよく知られたところですし、「殺人の罪が暴かれるのを犯人視点で描く話」として、「途上」を「日本が世界に誇れる探偵小説!」と大絶賛して(「春寒」など読む限り、谷崎はそれにやや引いてた)、そこに登場する「プロパビリティーの犯罪」というテーマを使って自身も「赤い部屋」を書いたりと、谷崎が描く「一線を踏み越えるに至る人間の心理」の物語、「タブーを冒す」という「内心の冒険」の物語が性癖ドストライクだったのは間違いないと思います。
怪人二十面相シリーズで性とリョナとショタに目覚めた私が言うんだから間違いない。

こちらは昔作ったクソみたいなエンタの神様風コラ画像
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なので、『殺意』を読んで「俺好みの人殺しの話書いてくれてありがとう……!!!」と悶えている乱歩の姿は、容易に想像できるところです。

強調したいのは、乱歩が「倒叙」という言葉(より正確に言えば「フリーマンが試みた形の近代型」という言い方)を使って『殺意』や、その後継作と彼が目している『クロイドン発12時30分』や『伯母殺人事件』を評した時に、彼が想定したジャンルのパースペクティブは「犯罪者(殺人犯、と限定しても良いかもしれません)視点で描かれるサスペンス作品の中で、探偵小説的興味を色濃く含むもの」くらいのものだったろうということです。

例えば『歌う白骨』の諸作と比較して『殺意』を「心理的スリルそのものが最大の特徴であって、非常に普通文学に接近している」(それを「近代型だ」と言っている)と評しています。

『罪と罰』と『殺意』を比較し、両者は別ジャンルだと論じる下記の文章のあたりからも窺えると思います。

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なので、「倒叙」は単に「ミステリ」という大枠の下のサブジャンルではなく、「ホラーミステリ」や「ファンタジーミステリ」という言葉に近い、越境的なジャンルを示したものだったのではないかと思うのです。
つまり「ノワールミステリ」とでも言いますか。

ちなみにフリーマンが『歌う白骨』の諸作で目指したところは、私見ですが「犯人の物語を描く」ことよりも、「科学捜査」さらには「近代的知性」への過信への警鐘だったのではないかと思います。

『歌う白骨』をはじめフリーマンのソーンダイク博士シリーズでは、好んで「他人に罪を擦り付ける」トリックや「冤罪」モチーフが扱われます。
科学捜査も万能じゃないよ、訳も分からず信じ込んじゃうと捏造や冤罪の温床になっちゃうよ!という警告が一義であって、だからこそ「捜査が間違った方向に進んでいる」ことを明示する必要があったがゆえの、inverted detective storyという形式だったのではないかと思います。
なので方向性としてはむしろ、エドガー・アラン・ポーの、マスメディアへの懐疑を織り込んだ「マリー・ロジェの謎」や、「迷信を切り開いた先にあるのは、『信じられる物語がない』という恐怖かもしれないけどね」という科学礼賛への皮肉が感じられる「モルグ街の殺人」のような、オーギュスト・デュパンものの諸作に近いのかもしれません。

なので、「同じ形式だよね!」というだけで、明らかに志向の違う『歌う白骨』と『殺意』を、ざっくばらんに「倒叙」という言葉でくくっちゃう乱歩もいい加減なのですが、だからこそ「倒叙と呼んで良いのはこういうものだけです」「〇〇みたいな作品は倒叙とは呼べない!」みたいな偏狭な言い方はせず、広さを容認して使うべきジャンル名と私は捉えています。
なんだったらば、「ミステリ」という語が実のところそうであるように、「ジャンル」ではなく単に「手法名」に過ぎない、それを使って「どんな物語が語られるか」のみが重要なのだとまで言って良いと。

※ちなフリーマンには「乱歩が喜びそうなタイプの倒叙(探偵との対決のスリル重視な作品)」にも、『ポッターマック氏の失策』という大傑作があったりします!


そしてまさかの2につづく!